要点
資金はフィリピンの 2 行(BDO・BPI)の信託口座にあるとされ、その実在は、銀行の名義の残高確認書で示されていた。報道と Wikipedia の集約によれば、確認書は第三者を経由して監査法人に届き、監査法人は銀行に直接照会せずにそれに依拠していたとされる。KPMG の特別監査と調査報道が、主張と実態の食い違いを外に見えるようにしたのは、長年の開示が市場に受け入れられた後だった。刑事の手続きは容疑の段階として報じられたもので、本 Brief は判決の内容を述べない。残高確認書がどれほど整って見えても、発行元の銀行がその残高を示したかは、届いた書面の中身からは確認できない。
実行の前の照合=残高を監査や開示の根拠として受け付ける前に、確認書を発行元の銀行が出したかを、届いた書面とは別に照合し、記録に残すこと。検知=特別監査や調査報道、銀行からの通知で、後から気づくこと。下の日付は、監査報告・通知・開示が出た日。
残高を示す書類は偽造(フィリピンの 2 行)
通った操作
- 通った操作
- 銀行の名義の残高確認書による、信託口座の現金残高の提示と、それを根拠にした監査済みの財務諸表としての開示。2020-06-16、フィリピンの 2 行は、19 億ユーロの残高を示すとされた書類を「偽造(spurious)」と監査法人 EY に通知した。
- 受け付けた側に届くもの
- 一般に、残高の確認で監査人に届くのは、銀行の名義の書面と、その書式・署名・金額である。書面が第三者を経由して届くと、発行元の銀行がその書面を出したかは、書面そのものには含まれない。報道と Wikipedia の集約は、EY が銀行に直接照会せず、転送された書面に依拠していたとする。
- 規制の範囲
- Wikipedia の集約によれば、規制当局 BaFin の権限は同社の銀行子会社に限られ、決済の本体や会計の実務には及ばなかった。
- 公表されていないこと
- 確認書類を誰がどの段で作り、どの経路で監査法人に届けたか。どの期の開示が、どの書類に依拠していたか。
実行前の照合
経路を問わず区別できる条件は、残高を受け付ける側が、確認書を発行元の銀行が出したかを、届いた書面とは別に、開示や監査意見の前に照合することである。
残高確認書がどれほど整って見えても、発行元の銀行がその残高を示したかは、届いた書面の中身からは確認できない。
- 誰が承認を出すか
- 資産を預かる金融機関(発行元の銀行)。残高が基準の額以上にあることを、発行元が自らの署名を付けて出す。資金の管理者や代理人を経由して転送される書面や、残高を開示する会社が自ら示す形では出さない。
- どこで照合するか
- 監査で残高を受け付ける手前と、財務諸表として開示する手前。発行元の署名と、その残高が示された時点を照合する。照合できなければ、書面がどれほど整っていても、残高の実在の根拠として受け付けない。口座の番号や取引の明細は外に出さずに、基準の額以上にあることだけを示す形にもできる。
- 何が残るか
- どの残高を、どの発行元の署名で、いつ照合して受け付けたかの記録。後年に「当時、その残高はあったか」を問われたときに、監査人・規制当局・取引先が示せる形で残す。
検知は、疑いを外に示し、調査を進め、発覚の後に是正の範囲を決めるのに欠かせない。ただ、調査報道も特別監査も、確認書が受け付けられ、開示が市場に届いた後に働いた。受け付ける時点で、その書面が発行元の銀行の示した残高かどうかは、検知では変わらない。ある属性の申告が、照合されないまま受け付けられた事案に、製品の型式指定の不正、技術者の資格の偽り、カーボンクレジットの発行がある。
Lemma でできること
Lemma は、実行前の照合を、残高を監査や開示の根拠として受け付ける側に組み込む。偽造の書類を見つけるのではなく、残高が発行元の金融機関の署名付きで示されたものかを、受け付ける前に照合し、記録に残す。口座の原本を会社の外に出さずに、基準の額以上にあることだけを示す形にもできる。
注意したい業界・業務
- 業界金融・FinTech
- 決済事業者、銀行、資金を預かる事業者と、その監査を担う監査法人。残高の実在は、財務諸表・上場の開示・取引先の与信の前提として受け入れられる。
- 業務情報の開示・提供
- 監査済みの財務諸表や ad-hoc 開示として、資産の残高を規制当局・市場に示す業務。
いまの対策と Lemma の違い
今回の経路は、両方の列にあたる。確認書が受け付けられ(1 列目)、その残高が監査済みの財務諸表として開示された(2 列目)。
| 対策 | 第三者を経由して届いた残高確認書の受け付け | 監査済みの残高の開示 |
|---|---|---|
| 届いた書面の確認(書式・署名・金額のそろい) | 効かない | 関係しない |
| 発行元の銀行への直接の照会 | 一部 | 関係しない |
| Lemma(実行の前の照合) | 効く | 一部 |
届いた書面の確認は、書面がどれほど整っていても、発行元がそれを出したかを含まないので効かない。銀行への直接の照会は、照会先が本物の銀行の窓口であれば働くが、照会先を届いた書面や第三者から得ていれば、同じ経路を通る。Lemma は、書面ではなく、発行元の署名を、受け付ける前に照合する。開示では、開示する残高に照合の記録があるかを照合できるが、記録の無い残高を開示から外すかは、開示の手順で決まる。
注:Lemma の照合が働くのは、発行元の金融機関が残高を署名付きで出し、監査と開示の手順にその照合を組み込んだ場合に限る。書面でしか受け付けない手続きは、照合の外に残る。発行元の銀行の中で、正しくない残高に署名が付けられた場合は、署名の照合では見分けられない。表は何を照合しているかの比較で、今回の事案で止まったかどうかを示すものではない。Lemma は、不正や侵入を検出・防止するものではない。
資産の残高を監査や開示の根拠として受け付ける組織で確認する 3 項目
- 残高確認書を、第三者を経由せず、発行元の金融機関から直接受け取る手順になっているか。
- 発行元への照会先を、届いた書面に書かれた連絡先ではなく、別に持つ記録から選んでいるか。
- どの残高を、どの発行元の確認で受け付けたかを、後から示せる形で記録しているか。
事実と時系列
- 会社
- Wirecard AG。ドイツ・ミュンヘンの、DAX に上場していた決済の大手。2020-06-25 に破綻を申請した。
- 確認されたこと
- 信託(エスクロー)口座にあるとされた 19 億ユーロについて、同社は 2020-06-22 の ad-hoc 開示で「存在しない可能性が高い」とした。同社の貸借対照表の約 4 分の 1 にあたる。
- 残高の示し方
- 現金残高の実在は、フィリピンの 2 行(BDO・BPI)の名義の残高確認書で示されていた。2 行は 2020-06-16、その書類を偽造と EY に通知した。
- 監査
- 長年の監査法人は EY。報道と Wikipedia の集約は、当該の残高について EY が銀行に直接照会せず、転送された確認書面に依拠していたとする。
- 特別監査
- 同社が 2019-10 に依頼した KPMG の特別監査は、2020-04 の報告書で、約 10 億ユーロの海外口座の残高の実在を確認できないとした。
- 規制
- Wikipedia の集約によれば、規制当局 BaFin の権限は同社の銀行子会社に限られ、決済の本体や会計の実務には及ばなかった。
- 捜査
- ミュンヘン検察が経営陣を捜査し、CEO の Markus Braun 氏は虚偽会計・市場操作の容疑で逮捕されたと報じられた。
用語メモ
残高確認書(balance confirmation) — 銀行が、ある時点の口座の残高を示す書類。監査で、現金の実在の根拠として使われる。
信託(エスクロー)口座 — 第三者(資金の管理者)が預かって管理する口座。Wirecard の 19 億ユーロは、この口座にあるとされた。
特別監査(forensic special audit) — 通常の監査とは別に、疑いのある取引や残高を調べるために依頼する調査。
ad-hoc 開示 — 株価に影響しうる事実を、定期の報告を待たずにただちに公表する開示。
時系列
- Wirecard が、外部からの会計の疑いを受けて、KPMG に特別監査(forensic special audit)を依頼する。
- KPMG の特別監査の報告書が公表される。約 10 億ユーロの海外口座の残高について、実在を確認できないとした。
- ミュンヘン検察が、CEO の Markus Braun 氏ら経営陣を捜査し、本社を捜索する。
- フィリピンの 2 行(BPI・BDO)が、19 億ユーロの残高を示すとされた書類は「偽造(spurious)」と EY に通知する。
- Wirecard が、19 億ユーロが「行方不明」と公表する。COO の Jan Marsalek 氏を停職にする。
- Braun 氏が CEO を辞任する。
- 当該の残高が「存在しない可能性が高い」と ad-hoc 開示する。
- Braun 氏が、虚偽会計・市場操作の容疑で逮捕される。
- Wirecard AG が破綻を申請する。
事実は KPMG の特別監査の報告書、同社の開示、Wikipedia の集約と、Financial Times・CNN Business・Reuters の報道に拠る。書類が偽造であるとしたのはフィリピンの 2 行の通知で、経営陣の逮捕は容疑によるものとして報じられた。監査の手続きについての記述は報道と集約に拠り、本 Brief は監査法人や個人の落ち度を認定するものではない。公表されていないことは、対策が無かったことを意味しない。
公表後の対応
- 捜査・会社: ミュンヘン検察が経営陣を捜査し、CEO を逮捕した。Wirecard は破綻し、上場は廃止された。BaFin の権限が決済の本体に及ばなかったことは、欧州の資本市場の監督のあり方をめぐる論点になった。
- 監査・ガバナンス: 残高を銀行へ直接照会する手続きの実効性、第三者を経由した確認書面への依拠、内部統制と外部監査の限界が、国際的なコーポレートガバナンスの論点として議論された。
- 制度の動き: 資産の実在や準備金を、書面の自己申告ではなく、外から照合できる形で示すことを求める要請が、金融と暗号資産の双方で強まっている。
Sources
- 一次情報KPMG 特別監査報告書 “Report concerning the Independent Special Investigation
報道・解析 2 件
- 二次情報・経緯の集約Wikipedia “Wirecard scandal”(19 億ユーロ、信託口座、EY・BaFin の関与、破綻の経緯)— https://en.wikipedia.org/wiki/Wirecard_scandal
- 二次情報報道 2020-06 の破綻に至る時系列(フィリピン 2 行の偽造通知、経営陣の辞任・逮捕、破綻申請)— Financial Times / CNN Business / Reuters