TL;DR
社会保険診療報酬支払基金(支払基金)は、AI 振分で絞り込んだ目視対象レセプトについて「目視による審査事務の実施割合 100%」を業務目標に掲げ、その達成を画面を 1 秒以上表示したかで計測していた。職員 290 人が、一定の秒数で自動的に Enter キーを押すツールでこの秒数を満たしていた。内部調査による検出は効いていた。効かなかったのは、「1 秒以上表示された」という記録を、人が実際に内容を確認したことの証明として独立に確かめる層である。
何が起きたか
- 支払基金は、公的医療保険の診療報酬請求(レセプト)を審査し、医療機関への支払いを行う法定の審査支払機関である。
- 審査支払新システムでは、レセプトはまず受付・事務点検、電子点数表、突合点検といったコンピュータチェックにかけられる。その後の振分 1 で「人が見る(目視対象とする)レセプト」「AI による振分対象とするレセプト」「判断の明らかなレセプト」の 3 つに分類され、AI(Minhash と Xgboost)は振分 2 で働く。人が審査するレセプトの割合は、新システム稼働時の 2 割から、2022 年 10 月に 1.5 割、2023 年 10 月以降は 1 割まで絞り込まれていた。
- 通常の審査事務では、職員が審査画面でレセプト 1 枚ごとに請求内容を点検し、「確認済」ボタンまたは Enter キーを押すと当該レセプトが確認済みとなって次の画面へ遷移する。支払基金は 2022 年度後期・2023 年度の業務目標として、目視対象レセプトにおける目視による審査事務の実施割合を 100% と掲げ、その達成は画面を 1 秒以上表示したかで計測されていた。
- 使われていたツールは、一定の秒数で自動的に Enter キーが押され、次のレセプト画面へ遷移するというものである。審査事務用端末に内蔵された表計算ソフト等で作成され、組織の共有フォルダを介して伝播していた。使用は 2022 年 6 月ごろに始まっている。
- 支払基金の全国調査とヒアリングにより、審査事務に従事したことのある職員 3,630 人のうち 290 人(8.0%)がツールを一度でも使ったことが確認された。
- 使用者 290 人のうち 81 人が、ツールの使用中に離席したことがあると回答した。支払基金は、この 81 人全員がコンピュータチェックの付いたレセプトの目視確認と抽出条件による審査事務は行っていたとする一方、うち 27 人については、コンピュータチェックも抽出条件も何もかからなかったレセプトをツールのみで確認済みとしていたものがあるため、目視をしていなかった可能性を否定できないとした。
このツールを挟むと、審査の記録は次のように成立する。
- コンピュータチェックと AI 振分が、当該レセプトを目視対象として絞り込む。
- ツールが一定の秒数で自動的に Enter キーを押し、次のレセプトへ遷移させる。ただしコンピュータチェック等の付箋が付いたレセプトでは自動遷移が停止する。ツールのみで確認済みとされ得たのは、コンピュータチェックも抽出条件もかからなかったレセプトである。
- システムには「画面が 1 秒以上表示された」という記録が残り、目視率の分子に計上される。
- その記録からは、人が内容を見たかどうかを区別できない。
時系列 — 公表と対応
- 2024-11-13:九州審査事務センターでツールの使用を把握。翌 14 日、本部が全国の職員にツールを使用しないよう連絡。
- 2024-11-15〜25:全国の職員に使用の有無に係る緊急調査を実施。並行して本部がツールを入手し検証。
- 2024-12-02〜:緊急調査では把握が不十分として、各センター長らによるヒアリング調査を開始(対象 320 人=ツール使用者・作成者等)。
- 2024-12-03〜13:審査事務に従事したことのある全国職員 3,630 人に、WEB フォームによる全国調査を実施。
- 2024-12-04:厚生労働省へ現状報告。12-16:理事会へ報告。
- 2025-01-23 付け:懲戒処分を発令(停職 1 人・減給 2 人・戒告 22 人の計 25 人)。あわせて 267 人を文書注意とした。
- 2025-01-28:支払基金が 1 月定例記者会見で公表(報道は翌 1 月 29 日)。
- 2025-01-31:厚生労働省の定例記者会見で、福岡大臣がこの件についてコメント。
処分の内訳には注意が要る。懲戒処分 25 人のうち、減給となった課長・課長代理の 2 人は USB メモリの管理を怠った件による処分であり、自動遷移ツールの監督責任を問われたものではない。戒告 22 人はツールの作成者、停職 1 人はフリーソフトを USB メモリ経由で共有フォルダに格納した職員である。ツールを使用した 267 人は懲戒処分に該当せず、文書注意とされた。
対応と論点は次のとおり。
- 支払基金は、ツールがコンピュータチェックの付いたレセプトでは停止すること、離席使用を認めた 81 人も抽出条件による審査事務は行っていたことを挙げた。ツール使用者と未使用者の査定額実績の平均に大きな違いはないとも報告している。
- 同時に支払基金は、業務目標の達成状況を実態よりも大きな数値で関係者に説明していたことを認め、遺憾であるとした。
- 大臣は「大変遺憾である」と述べた上で、審査業務に熟達した職員であれば算定項目がごく少数の場合には瞬時に判断できるため、1 秒ルールに疑義を感じていた職員もいたとし、ルールを設定した本部と現場との意思疎通が不十分だった可能性を指摘した。
- 会見では記者から、支払基金が監督責任を否定し理事長はじめ上層部の処分を見送ったとの指摘があった。厚生労働省は個々の職員の処分内容へのコメントは差し控えるとしつつ、原因の確認と再発防止の徹底に向けて必要な指導を行う方針を示した。
- 当時、支払基金は医療 DX の開発・運営母体としての抜本的な改組が検討されており、厚生労働大臣が医療 DX の総合的な方針を定めるなど、国がガバナンスを発揮できる仕組みの構築が議論されていた。本件はその改組議論と並行して表面化した。
なぜ止まらなかったか
この事案の失敗は、職員が確認を怠ったことでも、ツールの技術的な巧妙さでもない。目視という判断行為そのものではなく、その代理指標(画面の表示時間)で達成が計測される業務目標が置かれ、その計測値がそのまま「確認した」という記録として上位に報告されていたことにある。
代理指標は、判断が実際に行われたかどうかとは独立に満たすことができる。支払基金はヒアリングで挙がった使用理由を「目標達成」「業務効率」「審査実績」「目標に対する不満」の 4 区分に整理しており、最も多く並ぶのは目標未達成の回避である。「1 秒以上の目視率が 100% にならないことで、上司から指導を受けていた」。ツールの作成者からは「90% 以上となると次は 100% を求められ、安易に作成してしまった」との回答もあった。使われたのも高度な技術ではなく、審査事務用端末に内蔵された表計算ソフトで作れる程度のものである。
検出は効いていた——1 拠点での発覚から 1 か月で、支払基金は 3,630 人を洗い、290 人の使用を特定し、公表までにうち 27 人について目視をしていなかった可能性を突き止めている。効かなかったのはその手前、記録が残る時点で「この記録は人の判断を表しているか」を確かめる層である。ここに検出と証明の落差がある。
その帰結は、支払基金自身の言葉が最も明確に述べている。
令和4年度後期・令和5年度の業務目標において、AIによるレセプト振分け機能を用いて、目視対象レセプトを絞り込むことにより、確実な審査を行うこととし、目視対象レセプトにおける目視による審査事務の実施割合を100%と掲げていた。それにもかかわらず、この目標の達成状況を結果として実態よりも大きな数値で関係者に説明していたことは、大変遺憾であり、お詫び申し上げたい。(支払基金、2025-01-28)
記録が行為に裏付けられていなければ、その記録を集計した達成率もまた行為を表さない。ルールの当否とは独立に、同種のバイパスは別の運用ルールの下でも再現する。
AI の事前判定の下流に人間の確認を置く構図は、事前承認に AI を用いつつ最終判断を人に残す Brief 124 と同じ形をしている。自動化された判定の下流で人が「確認した」とされる工程は、その確認の実在を独立に示せないかぎり、制度上の安全弁として数えられない。
証明があれば、何が変わるか
AI による振分で目視対象を絞り込み、その後段に人間の確認を置く設計そのものは合理的である。問われるのは、その確認という行為を、時間経過のような代理指標ではなく、行動が確定する前に独立して検証できる証跡へどう結び付けるかである。
Lemma がこの落差に対して提示する設計は次の通りである。
- 行動前の判断証明:確認を要するとされた対象について、判断が下されたという事実を、上程・確定という行動の前に独立した証跡として要求する。
- 代理指標と判断の分離:画面の表示時間のような代理指標を、判断そのものの証明と同一視しない。代理指標は満たされても、判断の証明は別に立てる。
- 集計値まで遡れる証跡:達成率のような集計値から、それを構成する個々の判断の証跡へ遡れるようにする。集計の段階で行為との対応が切れないようにする。
担わないものも、あわせて書いておく。
- 審査業務の目標設定や人員配置の妥当性を判定することはしない。1 秒という基準や 100% という目標が適切だったかは、審査制度の設計の領分である。
- 職員個々の処分の当否について評価することはしない。
- 証明が示せるのは、その判断が実際に下されたかまでで、判断の中身が正しかったかまでは示せない。
事後の内部調査との違いはここにある。調査は問題が起きた後に実態を明らかにするが、個々のレセプトが処理される時点で、その確認が実在したかを区別する材料にはならない。
検出の層と、この層は代替ではなく補完の関係にある。前者は逸脱を後から洗い出して規模を把握し、後者は「確認したという記録が、確認という行為に裏付けられている」ことを、審査が確定する前に確かめられるようにする。
Sources
- 社会保険診療報酬支払基金(一次・公式発表): 「レセプト画面の自動遷移ツール」1 月定例記者会見 資料 5(2025-01-28、全 19 ページ。経緯・全国調査結果・懲戒処分の内訳を含む)— https://www.ssk.or.jp/pressrelease/pressrelease_r06/press_070128_1.files/pressrelease_070128_1_5.pdf(会見ページ: https://www.ssk.or.jp/pressrelease/pressrelease_r06/press_070128_1.html)
- 厚生労働省(一次・公式記者会見記録): 「福岡大臣会見概要」(令和 7 年 1 月 31 日)— https://www.mhlw.go.jp/stf/kaiken/daijin/0000194708_00773.html
- 社会保険診療報酬支払基金(一次・公式): 「AI によるレセプト振分機能について」— https://www.ssk.or.jp/shinryohoshu/gyomuflow/ai_furiwake.html
- 東京法規出版 医療ニュース(報道): 支払基金が職員 290 人・管理職 2 人を処分、全国 3,630 人を調査(2025-02)— https://www.tkhs.co.jp/medical/news/detail.html?CMS_FRONT_INFO_ID=1942
支払基金は、ツールがコンピュータチェックの付いたレセプトでは停止すること、査定額実績に大きな差がないことを挙げ、審査の質への影響を限定的としています。本 Brief は個々の職員の行為ではなく、記録と行為の結び付きという構造を扱います。